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★ セーヴェルーってどんな人?

ハーラル・セーヴェルー(1897〜1992)は、20世紀ノルウェーを代表する作曲家である。1940年から45年にかけて、ナチス・ドイツによる占領下におかれたノルウェーの人々にとって、彼の音楽は勇気と慰めを与え続けたとして深く敬愛され、その葬儀は国葬となる程であった。

ノルウェーの作曲家といえばエドヴァルド・グリーグが有名である。時は遡るが、グリーグが若かりし頃にはまだ、ノルウェーに「音楽界」と呼べるものは無かった。もちろん著名な音楽家はいたが、人々の音楽家に対する理解や関心は薄く、グリーグはノルウェーに豊かで、高いレベルの音楽界を築こうと苦心し奔走した。彼は同時代に活躍した作曲家で指揮者のヨハン・スヴェンセン(1840〜1911)と共に、長い時間をかけて、ノルウェーの音楽レベルを引き上げ、活気ある音楽界を築きあげる事に成功したのだ。こうして作られたノルウェーの音楽界は、クリスチャン・シンディング等に引き継がれ、更なる充実を見せていった。そしてその後を次ぎ、ノルウェー音楽の基盤を固め、現代へと導いた作曲家が、ハーラル・セーヴェルーなのである。

 
写真提供:トロン・セーヴェルー
(写真の無断使用は禁止します)
   
 
1897年4月17日。セーヴェルーはノルウェーの港町ベルゲンに生まれた。セーヴェルーの孫、トロン・セーヴェルーによると、彼の家は代々ノルウェーの民族楽器「ハルダンゲル・フィドル」の継承者として深く音楽に携わっていたようだ。そんな環境の中にありながらセーヴェルーが音楽の勉強を始めたのは、18歳の時から、と大変遅かった。    
     

彼はベルゲン音楽院でピアノと和声学を学び、その後奨学金を得てドイツ・ベルリン音楽大学へ留学する。 ベルリン在学中、セーヴェルーはオーケストラ作品の完成に励み、その作品はベルリンフィルによって初演されると、たちまち北欧中のオーケストラが彼の作品を取り上げた。24歳の時にはセーヴェルーは既に新進気鋭の作曲家としてドイツ、ノルウェーのみならず各国で注目を浴びる存在であった。

その後ベルゲンに戻ったセーヴェルーは、オーケストラ作品や劇音楽を次々作曲していく。
1934年には、マリー・ヴォスレフという女性と結婚したが、彼女は大変裕福な家柄だった事もあり、セーヴェルーは生涯のほとんどを作曲活動のみに専念する事が出来たのだった。

1939年、ベルゲン郊外の広々とした土地に移り住んだセーヴェルーは、自ら我が家を「シーリューステール(猫柳の館)」と名付け、亡くなるまでここに住み、作曲を続けた。

 

By Sayuri Seki
     

シーリューステールは、セーヴェルー本人の言葉によると「原野や森林や、さらさら流れる小川のあるベルゲンの南の土地(松崎巌氏書)」となるらしいが、それはそれは広大な、正に森のような敷地に、石造りの大きな家である。
現在彼の家の半分は博物館になり、グリーグの家「トロルドハウゲン」が管理している。


1940〜45年にかけての第2次世界大戦中、ノルウェーはドイツ・ナチス軍に占領された。セーヴェルーはオスロからの帰途の船の中から、故国ノルウェーの地にドイツ軍の兵舎があるのを見て、ふつふつと湧き上がる怒りを表現した「抵抗のバラード」を作曲する。この作品は萎えた国民の心を鼓舞させ、勇気と希望を与えたとして、「独裁と占領に対する闘いのシンボルの曲」となり全国民中に支持された。(音源に飛べるように)

ノルウェーは長い間連合国家で、束縛は無いものの、自国の特徴を公に出せなかった時代が続いた。1905年に連合が解消され独立を果たすも第2次世界大戦中、再びナチスの占領下に置かれる。こうした歴史の中、第二次世界大戦後やっと自由を得たノルウェーの人々の間には、独自のノルウェー文化、ノルウェー言語を作ろうという動きが高まった。この新しい波は芸術、文化にも及び、ノルウェーの代表的芸術作品《ペール・ギュント》にも波紋が広がった。

2人のノルウェーを代表する芸術家:イプセンとグリーグによる世界的傑作《ペール・ギュント》だが、人間くさいイプセンの劇詩に対しグリーグの音楽はあまりに叙情的ではないか?よりリアリティのある新しい音楽が作れないものか?という事で、セーヴェルーが新しい《ペール・ギュント》の作曲依頼を受けるのである。

セーヴェルーは大変乗り気でイプセンの劇詩を見直し、グリーグとは全く違った観点から《ペール・ギュント》を作曲した。1948年、セーヴェルーの音楽付き《ペール・ギュント》はオスロ劇場で初演され、大成功を収めた。ノルウェー色や、ペールの人間らしさをより強調したセーヴェルーの《ペール・ギュント》は、現在ではグリーグのものよりも人気が高いそうだ。セーヴェルーは戯曲として19曲を書いたが、内12曲をコンサート版としてオーケストラ、ピアノ独奏用にまとめている。

代表作《ペール・ギュント》の他にも、9曲の交響曲、劇音楽、バレエ音楽、協奏曲等、管弦楽を中心とした数多くの大作を遺したセーヴェルーだが、もう一つ彼の作品で忘れてはならないのが、ピアノ小品である。

ピアノ小品は、5つのカプリチオ、ピアノ・ソナタ、ピアノ組曲といった初期の作品を除いて、全て中年以降、シーリューステールに移ってから書かれた。日常の家族との時間、紡ぎだされる何気ない会話や、我が子がヨチヨチと庭を駆け回る様子、生活の中にある自然のメロディや空想の世界・・・夢の様な小さな世界が綴られたピアノ作品には、大作曲家の顔ではなく、生活を楽しむ素のままのセーヴェルーそのものといえよう。

 

By Sayuri Seki
     

ピアノ作品は全4集から成る「シーリューステールからの歌と踊り」、全2集から成る「ピアノのための小さな作品集」、「6つのソナチネ」や「シーリューステール・スロッテル」他、演奏しやすい、温かみ溢れる作品ばかりである。(音源に飛べるように)

セーヴェルーの作風は「民族主義的」と言えるだろう。グリーグのように、ノルウェーの伝承音楽や民俗音楽をそのまま曲にする事はなかった。しかし「ノルウェーの作曲家として「民族音楽」の精神を吸収する事に努めてきた」という本人の弁にもある通り(松崎巌氏書)、リズム、旋律全てにおいてノルウェー色に溢れている。

ピアノ作品での代表作は、やはり何と言っても「抵抗のバラード」。そして「ロンド・アモローソ」である(音源に飛べるように)北欧神話を題材にした「雷神トール」、戦争で息子を亡くした母が歌う子守歌「最後の子守歌」もノルウェーでは広く愛され演奏され続けている。

セーヴェルーは92歳まで作曲を続け、95歳の時、ベルゲンでその生涯を終えた。
シーリューステールの、仕事部屋が良く見える高台お墓に眠っている。

 


シーリューステールでは、ベランダを蔦って青りんごが成っている。

By Sayuri Seki

 
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